2016年6月21日火曜日

英語と論語



結局、現在のところ、小学校には英語と共に、古典も導入されている。日本の古典と漢文である。

英語を導入するには、教育学的議論や統計による分析が行われたと思う。が、古典の導入は、英語に対抗するような形で現れてきた感がある。

古典を小学校で導入することが本当に必要なら、やったらいい。小学校で導入することが、本当に効率的なら。

前々回の記事で書いたが、より年齢の低い子どもたちがより優れているのは、耳で聞いて、口で発音する能力である。

ところが、古典の勉強は読解であり文法だから、小学校で導入しなければならない理由は、どうもわからない。

特に漢文は、当時の日本人の男性にとってさえ、読解であり、文法であった。漢文のリスニングなどというものは、ありえなかった。

李白や杜甫、孔子が、実際どのように発音していたのかわかりようがなかったから、当時の日本の知識人は、日本語流に読む方法を編み出した。それが漢文という、日本人の教養になっていった。

個人的には、私は漢文が大好きだ。中国語の発音とは似ても似つかぬ、あの硬い発音もかっこいいと感じる。

ただ、それを小学校で導入しなければならない理由はどこにあるのか、それが解せない。

百人一首をやらせるのもよくわからない。ゲーム性があるから、楽しみながら学ぶという側面はわかる。そういう意味で楽しんでいる小学生は確かにいるだろう。

しかし、百人一種の恋愛感情にピンとくる小学生が何人くらいいるのか。

短歌や俳句をよくする人の話では、百人一首に取られた歌が、その歌人の最高傑作というわけではないらしい。

ゲーム性があるから百人一首というのは、ちょっと安直ではないか。

日本語のリズムを身に着けるという意味では、いわゆる七五調はいいのだろう。「いろはかるた」ならわかる。ことわざを覚えられるという利点もある。

どうしても小学校で古典を導入したいというのなら、小学生の生活感覚に近いものの方が効果的ではないか。例えば、小林一茶だったら、小学生も目を輝かせる。

小学校に古典を導入して古典嫌いを増やすなら、やめた方がいい。

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